青森県立美術館
意識を内に限界まで凝縮させようとしているような、そのように濃度が高い絵がそこには存在した。
強い怒り、強い焦燥、強い悲哀、そして絶望そんな感情がその絵のなかに、したたかに閉じ込められている。
その前から、離れることができなかった。興奮し鳥肌がたった。
したたかに閉じ込めたはずの、それらの感情が、ものすごいエネルギーを持って、絵から飛び出し私の体内に入り込んでくる。
絵の意思が体に憑依し、私にその感情の共有を強制させる。
阿部合成の自画像、それがその絵であったわけだ。後で少し調べたのだが、彼は青森県出身の作家で太宰治とも交流があったようだ。
太宰の言葉で、大人とは青年の裏切られた姿であるという一節がある。私の解釈では、太宰の悩みの大半はそこに帰結するように思っている。太宰のその言葉は、怒り、焦燥、悲哀、そして絶望が凝縮されている。しかし、太宰はそれをあえて小説で表現している。
合成は絵画で、太宰は小説でそれらを不器用に表現している。かれらは、わざわざそれを表現せずには、いられない。
そこに私は魅力を感じる。
しばれる快感
この前思いたって、一人で青森旅行に行ってきた。
津軽弁でしばれるという方言がある。凍てつくという意味だ。このしばれるといのはよくできた言葉だ。まさに津軽の寒さはしばれるものだった。
津軽の寒さは、重大なる過失を持って私を内に内に沈めて行く。私は自身でその意思を持って、やむを得ずというような顔をして自身をしばっていく。
彼は、真実においては、嬉々として自身をしばっている。津軽の凍てつく風に大義名分をえた気分になって。
津軽のしばれる寒さは、私に意識の散乱を許さない。あらゆる感情がある一点に向かって走っていく。
彼は、自身の欲望を成就させるために、恍惚の表情で彼自身をしばっていく。
なぜなら感情の濃度の高いある一点は快楽となるのだから